2012年3月9日金曜日

教え込むより考えさせる

吉岡たすくさんは教育的視点から書かれていますが、私はコミュニケーションの視点から書いてみようと思います。
“教え込むより考えさせる” これを絵に当てはめてみると、子どもの好きなように、自由に思いきって描かせれば良いということになります。“時には、黒とか青とかの絵の具で“りんごを描いてごらん”と言ってみますと、子どもは一瞬悩み、考え、そして自分なりの想像力を働かせて描きますよ。“と吉岡さんはおっしゃいます。
でも、いつも教え込まれている子ども、枠にはめられている子、受身的な子どもは“そんなの描けない”と言って、描けないのが事実です。一足飛びにはいきませんが、こういった子どもたちも一寸した助言や助けをきっかけに変わることは可能です。
親子のコミュニケーションのあり方を話し合う集まりの時に あれこれ親が言わずに子どもに話させよう、といったトピックでの話し合いをしました。その時に “うちの子は、そんな風に対応したら何も言わないと思う” という、先に書いたことに通じるコメントを親からもらったことがあります。
教え込む、または親の考えを子どもの発言を待たずに発してしまう。これは、子どもの自主的な考える力を摘んでしまうだけではありません。自分の感じていることを表現する機会が与えられない子どもは、親との信頼関係を弱めていきます。わかってもらえない不満やもどかしさ、寂しさ、時には怒りを心に残します。
子どもが憤っている時に冷静に気持ちを聞いてあげるのは難しいかもしれません。つい “いったい何があったの!友達とけんかしたのか知らないけれど、お母さんにそんな態度はないでしょう” と反応してしまいます。そんな時 “なんだか随分怒っているみたいね。何があったのかしら” と出来事を話す機会を与えてあげたらいいんです。そして、子どもが言うことに納得がいかなくても、それはあなたが悪かったと指摘する前に、どんなにくやしい気持ちだったのか、悲しい思いをしたのか、本人が言える機会を与えてあげてください。“何でもないよ!” と返ってくるかもしれません。それでも子どもにとっては問いかけてもらった事に意味があるのです。
吉岡さんは“よおし、描いてみようと自分なりに思いきって描くような子ども、こういう子どもが大きくなって社会に出た時、強く生きていけるのです。”と言っています。動揺した気持ちをまず受け入れてもらった子どもは、親の言葉に耳を傾けることができ、将来困難に直面した時に強く生きていける術を身につけて育つ、共通点があると思います。

2012年2月27日月曜日

お母さんにバイバイ言うときどんな気持ち?

2月からPre-schoolに入った子供たち、Kindergerten(学校の1年生の前の学年)に入った子供たち、どんなスタートを切ったでしょうか?


  お母さん方はどうでしょう?おお泣きしてどうなるかと思ってけれどやっと落ち着いてやれやれと思っているお母さん、親の心配をよそに結構スムーズになじんで何だか気が抜けてしまっているお母さん、はじめは泣かなかったのにこの頃行きたくないと言い始めて園でいったい何が起こっているんだろうと思い始めているお母さん、さまざまだと思います。
初めて親から離れ、集団生活を経験する子供はどんな気持ちでいるのでしょう? 子供さんと話したことはありますか?“まだ小さいから、自分の気持なんか言えない”と思っていらっしゃるお母さんに知って頂きたいことは、子供は自己表現できなくても聞いて(質問して)もらったことによって親への信頼感を育んでいるんです。そうです。まだまだ小さいんです。語彙も少なく、うまく自分の気持ちなんて言えないんです。でも思い出してみてください。彼らがまだ本当に小さかった頃、親は赤ちゃんが何も返答しないのを知っていても話しかけていませんでしたか?2才・3才になってそこそこ会話ができるくらいに成長すると同時に、どこからか生意気な物言いも覚えてきて、まして大変な反抗期を経験した親にとっては、赤ちゃんの時と同じ視点で見ることは難しいかもしれませんね。

“お母さんにバイバイ言うときどんな気持ち?” そんなこと話題にしたって、じゃあ行かなくてもいいよというわけにはいかないんだから、と思いますか? 納得させなくていいんです。そこは、Boundary(バウンダリー)、子供たちが社会に生きていくために乗り越えなければならない一線です。でも受け止めてあげてください。 
“そうなんだ。お母さんも寂しいなって思うよ。” “必ずAfternoon teaの後に迎えに行くからね。”(3時に,ではなく具体的な活動の後に、と言う方が子供にはわかり易いです)そしてしばらく抱っこしてあげてください。

子供がセパレーションを乗り切れない背景には、それまでの経験が影響しています。それは、親が覚えていないような出来事とつながっているのかもしれません、園の環境と家庭での生活環境の違いが理由かもかもしれません、親子関係のタイプかもしれません。もしかしたら、親の抱えている気持ちを反映しているかも知れません。子供は繊細ですよ。
©Makiko Nakazawa 2012

2012年2月26日日曜日

友達親子

ブログのタイトルに使ったこの言葉からどのような印象を持たれたでしょうか?

娘と母親が姉妹のような親友のようなオープンな信頼関係でつながっている、息子と父親が男同士の話ができるように成長した。子育てのゴールに見たい光景ですね。

ゴールということはそこに達していないスターティングポイントがあるということです。ところがこのゴールであるはずの光景をまだ幼児の子どもと、スターティングポイントであるはずの時期に見ているのは私だけでしょうか?
どんな人と友達になりますか?価値観を分かち合える人、見解が違っても話し合える人ではないですか?私たちは幼稚園・保育所に入って以来、気の合う友達を見つけていろんなことを分かち合ってきました。不思議と子供たちが仲良しになると親たちも自然と友達になっていくんですね。両方の親が似た価値観で子育てをしているということでしょうか。
では、幼児と親との関係はどうなんでしょう?平等ですか?私は上下関係であることが親と育つ過程にある子供たちとの健全な関係だと思います。
しつけについてどういう考えをお持ちですか?しつけというとあれもダメ、これもダメと厳しく育てることだという印象が一般的なんでしょうか?Dr. Sal Severe “How to behave so your children will, too”BANTAM BOOKS社)という本の中でしつけとは罰を与えることではなく、理にかなった選択ができるように教えることだと言っています。
しつけとは超えてはいけない一線(Boundary)を越えるか越えないかを教えていくことです。こんな話を聞きました。
あるところに、大変知りたがり屋の金魚がいた。水槽の中にいるのに飽きて、しかも外の世界が自由で楽しそうに見えたので精いっぱいのジャンプをして水から飛び出した。もちろん魚にとって水のない世界では死しかない。
水槽の中が安全で自由があり楽しい場だったんですね。水槽のガラスの壁が超えてはいけない一線(Boundary)です。子供たちにあてはめて考えられますか?
子どもは一歩譲るとまたもう一歩押してきます。どうしてでしょう?子どもたちはどこまでが安全なのか知りたいんです。ですから一線をきちんと引いて育てている家庭の子どもの方が落ち着いていて、学習の場で新しいことにチャレンジするゆとりがあるようです。
私は境界線を知っていると安心する例をこんな風に説明します。私はプールではかなり泳げるんですが海は好きではありません。プールならどんなに深いプールでも怖くないんですが海は深さがわかりません。波打ち際からどんどん歩いていく時、足が砂を感じている間はまだもう少し行っても大丈夫だと歩を進めます。ところが海って急に深くなっていることがあるでしょう。あれが怖いんです。足の指先で砂を感じているのが境界線(Boundary)です。砂を感じている間は安心なんです。
理にかなわない、親の都合を押し付けることとしつけの違いが実際の例がないとわかりにくいかもしれませんね。E-Mail(詳細プロフィールに入るとアクセスできます)でお問い合わせください。もう少し具体的な場面にあった考えをお伝えできると思います。
子どもさんが20才くらいになる頃、友達親子になっていたら素敵ですね。
© 2012 Makiko Nakazawa

2012年2月24日金曜日

性格を知ることと、レッテルをはらないこと

前回、吉岡たすくさんが庭師から学んだことを“桜切るバカ、梅切らぬバカ”と題して親あてに書いているのを紹介しました。これは親が子どもそれぞれの個性を知っていることの大切さを言っているのですが、このことを考えていたらフッと一つの質問を思い出しました。
もう何年も前になりますが、“うちの子は...なんです。”とレッテルを張らないようにしたい、という話をお母さん方とした時のことです。質問は、“でも、生まれつき持っている性格は変えられないと聞いたんですが…” というものでした。まだ子育ての話し合いの場を持つ仕事を始めたばかりの頃で、その場で答えられなかった苦い経験でした。
性格は、それぞれの感じ方、考え方のことです。兄弟二人を同じように叱っても、お兄ちゃんはシュンとなるのに弟には全く効かないといった例はほとんどの親が経験から知っていることでしょう。どちらの感じ方・考え方が正しい・正しくないと言うことではありません。桜か梅かを見極めて、というところにつながります。
性格を変えることは、簡単ではありませんができない事ではありません。他の目から見て悪いから変えるのではなく、変わりたいから変わる努力をするのでしょう。こんな高度な自分改革は子どもに求められることではありません。
幼児期はまだ人格形成期です。実は“レッテルを張らずに…”も吉岡さんの発言です。小さい頃から、うちの子はこういう子だからと決めつけて育てたらそういう性格の子に育つ、とおっしゃるのです。
レッテルを張るということは、繰り返された行動を基にこの子はこういう子だという目で見てしまうことです。大概悪い方向です。ところが、子どもの行動には必ず裏付けがあります。見聞きして学んだ(誰かのまねをしている)、親の言葉や行動を子どもなりに理解した結果の行動、動揺するような出来事が起こった後に防御的に反応するようになった、大人の気を引きたい(時々これは助けを求める信号)等々。決めつけてしまう前に行動の裏を探ってみなければなりません。
子どもは間違ったことをした経験からも多くのことを学んでいきます。とった行動が間違っていたら、それなはしてはいけないことだと正さなければなりませんが、だからと言ってその子が“悪い子”なのではありません。子どもに限らず、人を見る時には行動と人格を分けてみないと危険です。行動が悪かったのであって人格が悪いのではありません。私は“悪い子”(naughty boy/girl)という言葉を使いません。
何回も注意しても同じ間違った行動をとる子どもを見る時、どうしてだろうと大人の側を振り返ってみることも大事です。注意の仕方が年齢に合っていなくてメッセージが伝わっていないかもしれません。言葉が足りなくて(例:“そんなことしちゃダメじゃない”というだけ)子供は何をしてはいけなかったのかわかっていないかもしれません。もっと深い感情が裏にあるかもしれません。
子どもが繰り返し同じ行動をするとき、この子はこういう子だからとレッテルを張る前に、行動の裏を探ってみてください。大人は言葉でちゃんと説明してくれないとわからないので戸惑いますが、まだ言葉で上手に表現できない幼い子供でも、親の“どうしたのかな、解りたいな”という気持ちを感じます。たとえば、“どうしていつもすぐ泣くの!”と “また悲しいことが起こったのかな?どうして泣いているのかな?”とでは、子どもの心に残るものが違うと思いませんか?
大人の私たちだって、レッテルを張られたくはないでしょう。もしそんなことが起こったら、きっと親しい人には理由やいきさつを説明して分かってもらいたいと思うのではないでしょうか。そうでなければ、どうせそう思われているなら…と投げやりになるかも知れません。
© 2012 Makiko Nakazawa

桜切るばか、梅切らぬばか

吉岡さんは植木屋さんから学んだことを子育てにつなげて説明しています。草木をうまく育てるためには肥料をやる時期、剪定する時期があるように子育てにも“温かく手を差し伸べなければならない時期、放っておいてもいい時期、喧嘩させてもいい時期、泣いたりわめいたりしてもいい時期、友達と助け合っていくべき時期などがある”とおっしゃいます。

“桜切るバカ、梅切らぬバカ”という言葉を知っていますか?桜は枝を切ると花が咲かなくなるだけでなく、枯れてしまう事があり、梅は反対に剪定しないと良い実がつかないところからきているのだそうです。これを子育てにつなげると、子どもそれぞれの個性を見極める大切さということになります。
“隣の子が桜か梅かわからないし、また自分の子どもが桜か梅かも見極めないで、隣が剪定したからといって、自分の子も同じように剪定してしまってかえって枯れさせてしまうこともあるんです。” なんとわかり易い説明でしょう。
この指摘はもう他の本で読んで知っているかもしれませんね。
それでも “わかっているんですけどね、ついやっぱり他の子と比べたり、同じことを習わせようと思ったりしちゃうんです”という正直なところを結構聞きます。そんなお母さん・お父さんへ。 実際に子どもさんの性格を書き出してみてください。それからお友達の性格を書き出してそれぞれの良いところを確認しあってはどうでしょう。夫婦で話し合う、子どもと話し合う、誰が相手であっても良いところを言葉に出すことは、語る側にとっても聞く側にとっても大変なプラスの効果があるんですよ。(短所を話題にすることは勧めません。特に子どもさんの前では。)
海外に住んで日本を思い返すと、みんなと同じように行動するのが日本人の傾向のように見えます。学校教育も一つの教室内では先生が前に立っての一斉授業。マスコミで大きく話題になるとすごい勢いではやる。こちらの人が不思議に思うのがリクルートスーツの風景。大人になったら文化に沿って生きる術を知らなければなりませんが、育つ過程にある子供たちには、個性(学び取り方)を尊重してもらうことが伸びていく大切なカギなんですね。
©Makiko Nakazawa 2012

親離れ、子離れ


私が吉岡たすくさんの本、“親ばなれ子ばなれ”に出会ったのは、日本で保育園勤務していた頃ですから既に20年以上前のことです。そんな古い考え方、と思いますか? そろばんを習った時代から、電卓を使う、PCを使うと学校教育は変わったかもしれません。でも私は、時代が変わっても人間が人間として育つ大切な始めの一歩は変わらないと思います。自動車が電気で走るようになっても、人手を使わなくてもコンピューターでいろんなことができるようになっても、それら利器を使えるようになる学習能力の基礎となる部分は幼児期に育まれ、その成長過程は変わりません。
そういうわけで、私は吉岡先生の書かれていることを今でも基本にしています。

私がこの本を買ったころは、“子ばなれ”なんてあまり聞きませんでしたが、Googleのサーチで沢山見つかって驚きました。

吉岡さんは“親が世話をしすぎていると、幼稚園に行って困る子どもが多いようですよ。”と切り出して、それを“親ばなれ”できない子どもよりも“子ばなれ”できない親という視点で語っています。
待てない、待ってあげられない親の姿を吉岡さんは指摘しています。
子どもがやるより親がやったほうが早いから都合が良いことも理由でしょう。子どもだって、自分でやればいろいろ口やかましく言われるものですから、親にまかせてやってもらえば楽でもあるし、責任を持たなくても良いし、、、ということになるのです。

前回書いたように、的を得た時期があるのですから、1才の子どもに自分で靴下を履きなさいと放っておくような年齢にあっていない要求はできません。でも3才の子どもにとっては12回コツを教えてあげ励ましてあげれば靴下が履けるようになるのはそう難しくありません。出来るようになったことで自信にもつながります。このステップを与えずにいつも親がやってしまうと子どもは学ばないまま4才、5才と育っていきます。5才の子どもが自分で靴下がはけないと聞いたら大人は何て言いますか?“5才にもなって靴下がはけないの???”子どもの責任でしょうか?
こちらの友達との会話や映画の中で、母親が成人した子どもを“My Baby”と表現するのをよく聞きます。母親の目から見たら子どもはいつまでたっても子ども。赤ちゃんの時ことを忘れることはないでしょう。でも“溺愛”ではなく、“敬愛”つまり、成長過程にある子どもを尊重して待てる愛、突き放せる愛、出来ると信じてあげられる愛が親に求められていることではないかなと思います。

©Makiko Nakazawa 2012